Monday, October 6, 2008

「十分な説明」とは?

今日のゼミで、十分な説明とはどのような説明か、が話題になりました。皮肉なことに、「説明」に関する私自身の説明がよくなかったと思います。ここで改めて説明してみたいと思います。

日本語に「一を聞いて十を知る」という言葉があります。この表現は日本のコミュニケーションの特徴の一つを表しているではないかと思います。つまり、人の言葉を理解しようとすることが日本の文化の中で特に重視されていることを物語っていると思います。「以心伝心」「阿吽の呼吸」「以心伝心」「お察し」などの表現も最小の言葉によるコミュニケーションの美徳を指す表現だと思います。これは日本のすばらしいところの一つだと思います。一所懸命に人が伝えようとしていること、あるいは言葉で表現ができないけども、考えていることを理解しようとすることは非常に大切だと思います。

概していえば、アメリカには違う傾向があります。日本が「一を聞いて十を知る」ならば、アメリカが「十を聞いて一を知る」文化と言われることがあります。やや極端な表現ではありますが、そのような傾向があります。しかし、だからと言ってアメリカのコミュニケーション文化がまるでだめだということではありません。聞く側の理解する責任を軽視する代わりに、話す側にかなり懇切丁寧な説明を求める傾向があります。逆に、日本では一所懸命聞くことが重視されますが、下手すると、やや説明不足でも「このぐらいでわかるだろう」という発想が強い印象を受けています。

それぞれの長所と短所が違って、片方だけがいいということではありません。これからも、皆さんには一所懸命に「聞く」あるいは「行間を読む」という日本的な長所を大切にしていただきたいと思います。しかし、書いたり表現したりするときには、逆に「このぐらいでわかるだろう」と甘くみないで、予備知識がなく、頭の回転があまりよくない人でも楽に理解できるような文や説明を目指してもらいたいと思います。

今日のゼミでのやり取りをきっかけに、他の教員にこの「十分な説明」について意見を聞いてみました。一人の教員は次のようなことをいいました。つまり「私が論文を書いている学生にいうのは、『私のために書いていると考えないで、この分野のことがよくわからない、自分と同じぐらいの年齢の学生のために書いていると想像しながら書いて』」というようなことでした。もう一人の教員は「論文を書く段階になると、君はもはや学生ではない。先生だ。いかに上手に自分の論文を読んでいる人を教え導くかが問われる」と言っているそうです。両方とも、私が伝えようとしていたことと同じ趣旨のアドバイスだと思います。中でも二つ目の言葉は示唆に富んでいると思います。皆さんは今までの人生で生徒や学生として「理解する能力」が問われてきました。教科書や授業がやや難解でも、しっかりと理解することが求められてきたでしょう。逆に、「わかりやすい説明」などはあまり求められていないと思います。いよいよ、卒論を書く段階になって「いかに説明するか」がポイントになっていると思います。その意味では発想を180度かえることになるかもしれません。

今日のゼミのやり取りを振り替えて、私自身には「十を聞いて一を知る」的なところがあったと反省しています。後で読み直して、取り上げていた説明はそこまで説明不足ではないと思いました。ただ、もっと考察や説明を加えたりしてもらえれば更によい文章になったと今でも考えています。

長くなりましたが、皆さんに「誰にでも理解できる明瞭な文章」で論文をまとめることを心がけてもらえれば幸いです。